【特集】被災地の今 ~震災から4年①~ 「医療遠く、日々不安」 復興進むも人材不足深刻
東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町。震災から4年、病院建設などの「町づくり」が進む一方で、人口減少が深刻な課題となっている。今号は南三陸町での復興支援の取り組みや町の様子をレポートする。

南三陸町防災対策庁舎。53名の職員が屋上に避難し、43名が亡くなった
津波てんでんこ――「津波が来たらとにもかくにも各自で高台に逃げろ」。津波の恐ろしさを日頃から叩きこまれてきた地元住民でさえも、今回の震災被害は想定をはるかに超えていた。
43名の職員が犠牲となった防災対策庁舎には、今でも献花が手向けられている。鉄骨造地上3階建て、高さ12メートルの庁舎の骨組だけがそこに残り、その姿が南三陸町を襲った津波の恐ろしさを物語る。
それまで地域医療を支えていた公立志津川病院や町社会福祉法人が運営する特別養護老人ホーム慈恵園はじめ、高齢者施設なども被災し、閉鎖を余儀なくされた。
4年が経った今、閉鎖されていた施設も次第に再建され始めてはいるものの、十分な人材を確保することができず、100%稼働できない施設も多い。
当時建設工事中だった社会福祉法人美楽会による特別養護老人ホームいこいの海・あらと(定員80名)は、当初の計画より2ヵ月遅れの2011年7月に開設。現在満床で、入所待機者は70名ほど。髙橋由里子施設長代理は「事業者間で『人材の奪い合い』になっています。当施設は100%稼働していますが、人材は十分とは言えません。常時募集をかけていますが、なかなか思うように集まりません」と話す。

昨年より盛土工事が始まった
施設にとってもう一つの問題が地域の医療体制が整っていないこと。現在活動している2名の開業医だけでは、町の高齢者医療を賄いきれていない。かつては沿岸部に位置していた公立志津川病院は南三陸町の隣町、登米市に移転されたため、緊急の場合でも車で数十分かかる登米市や気仙沼市、石巻市まで出なければならない。「今は元気だけれども、何かがあった時のことが心配」「インフルエンザなどの感染病にかかっても対応できない」というように、入院ができる病院や診療にきてくれる医師がいない中で、住民や介護現場の職員は日々不安を抱いている。
町民の思考、前向きに
町は「医療・保健・福祉の一体整備」を町づくりの柱として掲げ「南三陸震災復興計画」のもと、復興を進めている。
2013年より造成工事を開始。昨年からは盛土工事も進められており、「着実に復興に繋がっている」(南三陸町産業振興課)という。高台には現在、地域医療・福祉の拠点となる「町立南三陸病院・総合ケアセンター(仮称)」を建設中。4年目を前にしてようやく目に見えるかたちで復興が進み、日々変化していく町に住民も期待を募らせている。
時が経つにつれ、町民の気持ちにも変化が生まれた。当時、特別養護老人ホーム慈恵園で介護士として働いていた山内登司子さんは、車椅子の利用者と避難している時に津波に襲われた。重なりあった車に幸運にも身体がはまり、山内さんだけが一命を取り留めた。「当時はなぜ自分が生き残ってしまったのだろうという気持ちの方が大きかったが、時間が経つにつれ、命を大切にしていかなくてはいけない。人生がいつ終わっても良いように、思いっきり生きていかなくてはいけないと考えるようになった」と話す。
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復興にはまだまだ課題も残る。町は人口減少という深刻な問題に直面している。総人口約1万7000人のうち、行方不明者含め約800人が震災で犠牲となった。その後も年度替わりなど環境変化に伴い、町外に移転する人が増え、現在では1万4000人ほどにまで減少。かつては観光客で賑わいを見せていた商店街の静けさが震災の風化を感じさせる。
「今後は町に人がくるきっかけづくりをしていかなくてはいけない。町づくりのアウトラインは見えてきたが、具体的な策が見出せていないのが現状である」と佐藤仁町長は復興への課題を挙げる。